【第4回】 こだわりの2階建てを近世から踏襲
◆整然とした町並みでイメージアップ
寛永6年(1629)、秋田藩初代藩主・佐竹義宣(よしのぶ)が通町と大町3町は家並みを板葺き(いたぶき)屋根の2階建てに統一するよう指示したことが、秋田藩家老・梅津政景(まさかげ)によって記された県指定有形文化財「政景日記」に書かれています。大町は藩内の中心的役割を帯びた町、通町は羽州街道沿いの町であり、他の藩の人びとの目に触れる機会が多いことから、メインストリートを整然とした家並みにして景観を整えようとしました。
当時、江戸幕府より家作(かさく)制限令が出され、住宅の建築について様々な規制がなされており、高さの制限もあったようです。また、家作制限令によるものか、藩独自の規制かは定かではありませんが、街道沿いの町家は参勤交代の藩主を上から見下ろしてはならないと、2階建てを禁止する地域もあったとか。
しかし、ここ久保田城下においては、町並みを整えよく見えることを優先し、2階建てを推奨したと考えられます。
現在の通町。整然とした町並みは今も昔も
◆通行人の目を引く装飾も
建築年代は戦後以降と考えられる旧城下町の町家においても、通りに面したところは2階建てにしているものもあり、外町(とまち)(注1)の町家の形式がかなり時代を下っても踏襲されてきていることがうかがえます。
旧松倉家住宅も明治39年(1906)の建築なので、藩政期の建築規制に左右されることなく建てることが可能だったはずですが、通りに面した部分のみ2階建てにするという形式を踏襲したと考えられます。
建物正面の立派な妻飾りや螻羽(けらば)の深さといった建築様式、また、2階の通りに面した建具を開け放つと、町並みを遠く見渡せることができる仕様となっていて、高欄(こうらん)(注2)も蟇股(かえるまた)(注3)の中備(なかぞな)えを設(しつら)える装飾が施されるなど、豪華な造りとなっています。明治期の建築であっても、そこかしこに近世の町家の形式がそのまま引き継がれていることがとても興味深い建物といえます。
注1 おもに商人・町人が住む町
注2 転落防止のための柵など
注3 木造の装飾のひとつ。カエルの股に似せた造り
建物外観(通常、建具は閉め切り)。赤枠部分が高欄と蟇股
細かな仕事ぶりがうかがえる蟇股
2階からの風景(パノラマ撮影)。当時の見晴らしの良さを思い浮かべて…
◆文章は「秋田県指定有形文化財 旧松倉家住宅修復整備工事報告書」の内容を引用し加筆・修正しています。
過去のシリーズはこちらから
【第1回】 城下町 南の玄関 “旧馬口労町”
【第2回】 江戸期から明治期へ ~松倉家の足跡~
【第3回】 伝統の建築様式を今に伝える